
たしかにそこには色彩が独特な肌合いとともに存在しているのだが、清宮質文の木版画から生じる影像は、あえかであり、また幽(かす)かである。
といって弱々しいのとはちがう。そのように的確精緻に対象ととらえ、あえかであり、幽かである影像を鮮やかに現実的に定着しているという点で、一種の強度さえそなえている。火だとか夕日だとか、さらには蝶の束の間の飛翔を対象として描く画面は、それらの光を鮮やかにとらえているために、その生き生きした現実を生き生きと表現しなければならず、微妙な姿の移り行きに感覚を従わせることとなって、結局、あえかで、幽かな印象を与えることとなる。そのため、たとえ外にある現実の光に触発されて始まった表現行為であっても、それは清宮氏の内面世界へ投映され、精神的なものになるまでに熟成される。
そうなれば、当然のことながら、現実にはやがてついえさる宿命からのがれられない光も、現実の制約をこえて、無限のものになるかもしれないのだ。現実の制約をこえたものを無限なものとみなすのもまた、精神の働きである。(岡田隆彦 序文より抜粋)
